2011/06/19

トロッコ

I will introduce a short story to Lang-8 friends who are studying Japanese. It is 「トロッコ(handcar)」. This short story was written by Mr. Akutagawa Ryuunosuke(芥川 龍之介) in 1922. He is one of the most loved and admired authors in Japan. 「芥川賞」 which is the greatest literary award in Japan was set up in admiration for him. Please read it. If you had unknown kanjis, words and ungraspable sentences, ask me. I will answer as far as possible.


小田原熱海(あたみ)間に、軽便鉄道敷設(ふせつ)の工事が始まったのは、良平(りょうへい)の八つの年だった。良平は毎日村外(はず)れへ、その工事を見物に行った。工事を――といったところが、唯(ただ)トロッコで土を運搬する――それが面白さに見に行ったのである。
トロッコの上には土工が二人、土を積んだ後(うしろ)に佇(たたず)んでいる。トロッコは山を下(くだ)るのだから、人手を借りずに走って来る。煽(あお)るように車台が動いたり、土工の袢天(はんてん)の裾(すそ)がひらついたり、細い線路がしなったり――良平はそんなけしきを眺(なが)めながら、土工になりたいと思う事がある。せめては一度でも土工と一しょに、トロッコへ乗りたいと思う事もある。トロッコは村外れの平地へ来ると、自然と其処(そこ)に止まってしまう。と同時に土工たちは、身軽にトロッコを飛び降りるが早いか、その線路の終点へ車の土をぶちまける。それから今度はトロッコを押し押し、もと来た山の方へ登り始める。良平はその時乗れないまでも、押す事さえ出来たらと思うのである。
或(ある)夕方、――それは二月の初旬だった。良平は二つ下の弟や、弟と同じ年の隣の子供と、トロッコの置いてある村外れへ行った。トロッコは泥だらけになったまま、薄明るい中に並んでいる。が、その外(ほか)は何処(どこ)を見ても、土工たちの姿は見えなかった。三人の子供は恐る恐る、一番端(はし)にあるトロッコを押した。トロッコは三人の力が揃(そろ)うと、突然ごろりと車輪をまわした。良平はこの音にひやりとした。しかし二度目の車輪の音は、もう彼を驚かさなかった。ごろり、ごろり、――トロッコはそう云う音と共に、三人の手に押されながら、そろそろ線路を登って行った。
その内にかれこれ十間(けん)程来ると、線路の勾配(こうばい)が急になり出した。トロッコも三人の力では、いくら押しても動かなくなった。どうかすれば車と一しょに、押し戻されそうにもなる事がある。良平はもう好(よ)いと思ったから、年下の二人に合図をした。
「さあ、乗ろう!」
彼等は一度に手をはなすと、トロッコの上へ飛び乗った。トロッコは最初徐(おもむ)ろに、それから見る見る勢(いきおい)よく、一息に線路を下(くだ)り出した。その途端につき当りの風景は、忽(たちま)ち両側へ分かれるように、ずんずん目の前へ展開して来る。顔に当る薄暮(はくぼ)の風、足の下に躍(おど)るトロッコの動揺、――良平は殆(ほとん)ど有頂天(うちょうてん)になった。
しかしトロッコは二三分の後(のち)、もうもとの終点に止まっていた。
「さあ、もう一度押すじゃあ」
良平は年下の二人と一しょに、又トロッコを押し上げにかかった。が、まだ車輪も動かない内に、突然彼等の後(うしろ)には、誰かの足音が聞え出した。のみならずそれは聞え出したと思うと、急にこう云う怒鳴り声に変った。
「この野郎! 誰に断(ことわ)ってトロに触(さわ)った?」
其処には古い印袢天(しるしばんてん)に、季節外れの麦藁帽(むぎわらぼう)をかぶった、背の高い土工が佇んでいる。――そう云う姿が目にはいった時、良平は年下の二人と一しょに、もう五六間逃げ出していた。――それぎり良平は使の帰りに、人気のない工事場のトロッコを見ても、二度と乗って見ようと思った事はない。唯その時の土工の姿は、今でも良平の頭の何処かに、はっきりした記憶を残している。薄明りの中に仄(ほの)めいた、小さい黄色の麦藁帽、――しかしその記憶さえも、年毎(としごと)に色彩は薄れるらしい。
その後(のち)十日余りたってから、良平は又たった一人、午(ひる)過ぎの工事場に佇みながら、トロッコの来るのを眺めていた。すると土を積んだトロッコの外(ほか)に、枕木(まくらぎ)を積んだトロッコが一輛(りょう)、これは本線になる筈(はず)の、太い線路を登って来た。このトロッコを押しているのは、二人とも若い男だった。良平は彼等を見た時から、何だか親しみ易(やす)いような気がした。「この人たちならば叱(しか)られない」――彼はそう思いながら、トロッコの側(そば)へ駈(か)けて行った。
「おじさん。押してやろうか?」
その中の一人、――縞(しま)のシャツを着ている男は、俯向(うつむ)きにトロッコを押したまま、思った通り快い返事をした。
「おお、押してくよう」
良平は二人の間にはいると、力一杯押し始めた。
「われは中中(なかなか)力があるな」
他(た)の一人、――耳に巻煙草(まきたばこ)を挟(はさ)んだ男も、こう良平を褒(ほ)めてくれた。
その内に線路の勾配は、だんだん楽になり始めた。「もう押さなくとも好(よ)い」――良平は今にも云われるかと内心気がかりでならなかった。が、若い二人の土工は、前よりも腰を起したぎり、黙黙と車を押し続けていた。良平はとうとうこらえ切れずに、怯(お)ず怯(お)ずこんな事を尋ねて見た。
「何時(いつ)までも押していて好(い)い?」
「好いとも」
二人は同時に返事をした。良平は「優しい人たちだ」と思った。
五六町余り押し続けたら、線路はもう一度急勾配になった。其処には両側の蜜柑畑(みかんばたけ)に、黄色い実がいくつも日を受けている。
「登り路(みち)の方が好い、何時(いつ)までも押させてくれるから」――良平はそんな事を考えながら、全身でトロッコを押すようにした。
蜜柑畑の間を登りつめると、急に線路は下(くだ)りになった。縞のシャツを着ている男は、良平に「やい、乗れ」と云った。良平は直(すぐ)に飛び乗った。トロッコは三人が乗り移ると同時に、蜜柑畑の匂い()を煽(あお)りながら、ひた辷(すべ)りに線路を走り出した。「押すよりも乗る方がずっと好い」――良平は羽織に風を孕(はら)ませながら、当り前の事を考えた。「行きに押す所が多ければ、帰りに又乗る所が多い」――そうもまた考えたりした。
竹藪(たけやぶ)のある所へ来ると、トロッコは静かに走るのを止(や)めた。三人は又前のように、重いトロッコを押し始めた。竹藪は何時か雑木林になった。爪先(つまさき)上りの所所(ところどころ)には、赤錆(あかさび)の線路も見えない程、落葉のたまっている場所もあった。その路をやっと登り切ったら、今度は高い崖(がけ)の向うに、広広と薄ら寒い海が開けた。と同時に良平の頭には、余り遠く来過ぎた事が、急にはっきりと感じられた。
三人は又トロッコへ乗った。車は海を右にしながら、雑木の枝の下を走って行った。しかし良平はさっきのように、面白い気もちにはなれなかった。「もう帰ってくれれば好(い)い」――彼はそうも念じて見た。が、行く所まで行きつかなければ、トロッコも彼等も帰れない事は、勿論(もちろん)彼にもわかり切っていた。
その次に車の止まったのは、切崩(きりくず)した山を背負っている、藁屋根の茶店の前だった。二人の土工はその店へはいると、乳呑児(ちのみご)をおぶった上(かみ)さんを相手に、悠悠(ゆうゆう)と茶などを飲み始めた。良平は独(ひと)りいらいらしながら、トロッコのまわりをまわって見た。トロッコには頑丈(がんじょう)な車台の板に、跳(は)ねかえった泥が乾(かわ)いていた。
少時(しばらく)の後(のち)茶店を出て来しなに、巻煙草を耳に挟(はさ)んだ男は、(その時はもう挟んでいなかったが)トロッコの側にいる良平に新聞紙に包んだ駄菓子をくれた。良平は冷淡に「難有(ありがと)う」と云った。が、直(すぐ)に冷淡にしては、相手にすまないと思い直した。彼はその冷淡さを取り繕うように、包み菓子の一つを口へ入れた。菓子には新聞紙にあったらしい、石油の匂いがしみついていた。
三人はトロッコを押しながら緩(ゆる)い傾斜を登って行った。良平は車に手をかけていても、心は外(ほか)の事を考えていた。
その坂を向うへ下(お)り切ると、又同じような茶店があった。土工たちがその中へはいった後(あと)、良平はトロッコに腰をかけながら、帰る事ばかり気にしていた。茶店の前には花のさいた梅に、西日の光が消えかかっている。「もう日が暮れる」――彼はそう考えると、ぼんやり腰かけてもいられなかった。トロッコの車輪を蹴(け)って見たり、一人では動かないのを承知しながらうんうんそれを押して見たり、――そんな事に気もちを紛らせていた。
ところが土工たちは出て来ると、車の上の枕木(まくらぎ)に手をかけながら、無造作(むぞうさ)に彼にこう云った。
「われはもう帰んな。おれたちは今日は向う泊りだから」
「あんまり帰りが遅くなるとわれの家(うち)でも心配するずら」
良平は一瞬間呆気(あっけ)にとられた。もうかれこれ暗くなる事、去年の暮母と岩村まで来たが、今日の途(みち)はその三四倍ある事、それを今からたった一人、歩いて帰らなければならない事、――そう云う事が一時にわかったのである。良平は殆(ほとん)ど泣きそうになった。が、泣いても仕方がないと思った。泣いている場合ではないとも思った。彼は若い二人の土工に、取って附けたような御時宜(おじぎ)をすると、どんどん線路伝いに走り出した。
良平は少時(しばらく)無我夢中に線路の側を走り続けた。その内に懐(ふところ)の菓子包みが、邪魔になる事に気がついたから、それを路側(みちばた)へ抛(ほ)り出す次手(ついで)に、板草履(いたぞうり)も其処へ脱ぎ捨ててしまった。すると薄い足袋(たび)の裏へじかに小石が食いこんだが、足だけは遙(はる)かに軽くなった。彼は左に海を感じながら、急な坂路(さかみち)を駈(か)け登った。時時涙がこみ上げて来ると、自然に顔が歪(ゆが)んで来る。――それは無理に我慢しても、鼻だけは絶えずくうくう鳴った。
竹藪の側を駈け抜けると、夕焼けのした日金山(ひがねやま)の空も、もう火照(ほて)りが消えかかっていた。良平は、愈(いよいよ)気が気でなかった。往(ゆ)きと返(かえ)りと変るせいか、景色の違うのも不安だった。すると今度は着物までも、汗の濡(ぬ)れ通ったのが気になったから、やはり必死に駈け続けたなり、羽織を路側(みちばた)へ脱いで捨てた。
蜜柑畑へ来る頃には、あたりは暗くなる一方だった。「命さえ助かれば――」良平はそう思いながら、辷(すべ)ってもつまずいても走って行った。
やっと遠い夕闇(ゆうやみ)の中に、村外れの工事場が見えた時、良平は一思いに泣きたくなった。しかしその時もべそはかいたが、とうとう泣かずに駈け続けた。
彼の村へはいって見ると、もう両側の家家には、電燈の光がさし合っていた。良平はその電燈の光に、頭から汗の湯気(ゆげ)の立つのが、彼自身にもはっきりわかった。井戸端に水を汲(く)んでいる女衆(おんなしゅう)や、畑から帰って来る男衆(おとこしゅう)は、良平が喘(あえ)ぎ喘ぎ走るのを見ては、「おいどうしたね?」などと声をかけた。が、彼は無言のまま、雑貨屋だの床屋だの、明るい家の前を走り過ぎた。
彼の家(うち)の門口(かどぐち)へ駈けこんだ時、良平はとうとう大声に、わっと泣き出さずにはいられなかった。その泣き声は彼の周囲(まわり)へ、一時に父や母を集まらせた。殊(こと)に母は何とか云いながら、良平の体を抱(かか)えるようにした。が、良平は手足をもがきながら、啜(すす)り上げ啜り上げ泣き続けた。その声が余り激しかったせいか、近所の女衆も三四人、薄暗い門口へ集って来た。父母は勿論その人たちは、口口に彼の泣く訣(わけ)を尋ねた。しかし彼は何と云われても泣き立てるより外に仕方がなかった。あの遠い路を駈け通して来た、今までの心細さをふり返ると、いくら大声に泣き続けても、足りない気もちに迫られながら、…………
良平は二十六の年、妻子(さいし)と一しょに東京へ出て来た。今では或雑誌社の二階に、校正の朱筆(しゅふで)を握っている。が、彼はどうかすると、全然何の理由もないのに、その時の彼を思い出す事がある。全然何の理由もないのに?――塵労(じんろう)に疲れた彼の前には今でもやはりその時のように、薄暗い藪や坂のある路が、細細と一すじ断続している。…………

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